江戸時代、江戸と川越の物資輸送を担った新河岸川舟運。有力な船問屋だった福田屋の建物を保存・公開し、舟運と問屋の暮らしを展示しているのが福岡河岸記念館です。
本日は「埼玉県民の日」で無料公開されていたこともあり、教室に行く前にちょっと足を運んで、郷土の歴史と地域の文化について理解を深めてきました。
東武東上線 上福岡駅から西武バスで約10分、城北埼玉中学・高校バス停で降りると、右手にすぐ新河岸川にかかる養老橋が見えてきます。
新河岸川舟運は、寛永15年(1638)の川越の大火で消失した仙波東照宮の再建資材を江戸から新河岸川で運んだのが始まりとされています。
その後、穀物などを江戸に運ぶ中継地として多くの河岸場が設置されるようになり、福岡河岸もその河岸場の一つです。
ちなみに、ふじみ野市のお隣、川越市は、穀物運搬の中継地点として栄えると同時に、着物や箪笥の生産地として発展しました。
昭和初期まで、数多くの船が江戸を行き来したことが、川越が「小江戸」と呼ばれる由縁でもあります。
川に沿って歩いていくと、福岡河岸記念館の手前に、福田屋同様、有力な船問屋だった吉野家の土蔵を見ることが出来ます。
木造二階建の土蔵で、文庫蔵として使われていたそうです。
吉野家の土蔵を過ぎるとすぐ、福岡河岸記念館に着きます。
福岡河岸記念館は、主に三つの施設から構成されており、帳場や床の間、台所などがある主屋(おもや)(写真右)、木造三階建で主に接客用に使われていた離れ(写真中央)、書類や冠婚葬祭・年中行事用の食器などが納められていた文庫蔵(写真左)があります。
土間から帳場を通して、床の間を見たところ。
帳場は、帳簿付けをしたり、荷主との取引を行う船問屋の顔でした。
船頭や馬方も大勢出入りし、とても賑わったそうです。
台所の様子。
煮炊きの釜があります。
台所の二階は男性の使用人の寝室などに使った男部屋で、写真左上に二階に続く階段が見えます。
こちらは女性の使用人のための女部屋へ続く梯子。
二階は非公開で見れませんでしたが、畳四畳しかないそうです。
室内のあちらこちらに、透かし彫りや浮き彫りの装飾、襖絵などが見られますが、これも襖の上を飾る木の細工。
福岡河岸は、対岸の古市場河岸とともに、明治時代に最盛期を迎え、新河岸川舟運は、昭和初期まで約300年間続き、その後物資輸送の主役は鉄道に移ります。
なお、記念館の敷地に入ってからずうっと、案内ボランティアの関勝之さんが私一人に付ききりで、施設を解説してくれました。
関さん、本当に有難うございました。
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